アジア教育史学会公式ブログ(Japan Society of Educational History in Asia)

アジアの教育を歴史的に研究し、日本の教育学の発展に資するとともに、各国のアジア教育史研究者と交流して、世界の教育史学研究に貢献することを目標とします。学会誌『アジア教育史研究』を毎年刊行、2012年12月には創設20周年を記念して『アジア教育史学の開拓』を刊行しました。

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大会自由論題発表要旨(山田美香)

1970‐80年代香港の中等教育

本発表においては、香港档案処の档案、当時の新聞を用いながら、1960年代以降、主に1970‐80年代において、香港の中学が義務教育化されていくなかで、どのような制度設計がなされていたのかについて明らかにする。これまで、方駿・熊賢君『香港教育通史』1などが、この時期の中等挙育を論じているが、香港档案処の档案を調べた研究はほとんどない。

1. 1960年代の中学

1961年8月14日の新界(新しく住民が増えた地域)の役所の会議では、「新界の小学の15%が中学に行くと、9,900人の生徒の椅子を用意しないといけない。」2と、必要な中学の数が策定されていた。従来からの多くの住民が住んでいる中心地ではなく、周辺部にある新界では、中学進学率は、わずか15%であるという前提のもと、中学建設が行われていた。小学生の進学希望者に対応した中学建設ではなく、多くの小学生が進学できないように中学の数は限定的であった。そのため、各地域から小学を中学とすることが提案された3。

2.1970年代の中学

中学の建設も重要であったが、「小学の33%の教師、中学の68%の教師は訓練されていない」4と、70年代初期、多くの者が小学に行ったが、小学であっても訓練されていない教師が33%もいた。小学、中学に行くには費用の負担が必要であった。そののち、『香港教育通史』に、「1978年には、計画より1年早く、香港の義務教育が既に実施された」5と記されているように、1970年代末に、中学が義務教育となった。

3.1980年代の中学

1982年『Llewellyn Report』が出され、その後の中学教育に影響を与えた6。このレポートに対しては、1983年11月、セント・スティファンズ女子学校校長が、「西洋の教育の在り方が、香港にとって、最も良いモデルになるのか」7と、不安を述べたように、多くの問題提起がなされた。

植民地であったことから、香港は、イギリスとの関係性・香港内部のイギリス人の声、さらに、香港人家庭における中学進学への要求など、多様なものが政策に反映され、中学教育が行われた。

1 方駿・熊賢君『香港教育通史』齢記出版有限公司, 2007年。
2 Minutes of the District Officers Meeting held at New Territories Administration on 14th August 1961, HKRS No..935 D-S No. 1-8
3 大公報, 1961年7月26日, 同上。
4 HongKong Standard, 1973年1月27日, HKRS No. 146 D-S No. 5-40。
5 方駿・熊賢君『香港教育通史』齢記出版有限公司, 2007年, p. 318。
6 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E8%A1%9B%E5%80%AB 2017年9月11日閲覧。
7 South China Morning Post, 1983年11月25日, HKRS No. 545 D-S No. 1-234-2。
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  1. 2017/10/09(月) 12:13:21|
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大会自由論題発表要旨(橋本学)

南京国民政府下「高等教育問題」の構造的考察―「國立北平大學」小史の検証を軸に―

《本研究(報告)の位置と目的》
1)これまでの研究経緯~中国近代高等教育史研究への着手と展開~

報告者の中国教育史との出会いは、卒論で明代史家呉晗(1909-1969)の“歴史主義”に基づく歴史人物論を取り上げたことに遡る。『朱元璋伝』『海瑞罷官』等の著作・戯曲や『三家村.記』で知られる呉晗は、 1934年、國立清華大學を卒業後、同校で助教となり、日中戦争下は省立雲南大學(1938年~国立化)、國立西南聯合大學で教授を歴任、国共内戦期には國立清華大學教授(1949年~同校文学院院長、歴史系主任)に就任するなど、彼の“大学人”時代は実に南京国民政権下(1927~49年)とともにあった。従って、報告者の呉晗研究は自ずと大学への探求を伴うことにもなる。

呉晗の日中戦争下における活動(中国民主同盟関連を含む)に触発された報告者はその後、修論でいわゆる「抗日文化運動」における知識人の活動に焦点を据えはしたが、教育問題や大学を矛先とする研究に向かうのは10年後、広島大学大学教育センターに助手として着任して以後である。

与えられた任務、すなわち、わが国の「大学設置基準の大綱化」(1991年)後における大学改革に関する調査・分析での手法を手懸かりに、①日中戦争下の中国高等教育機関の動向、②南京国民政府による高等教育政策の展開、③清末民初における近代的高等教育システムの整備、と、順次、研究を進めることとなる。“難物”=「國立北平大學」と邂逅するのもその過程においてである。

2)「國立北平大學」像復元という難渋~断片的記事を求め史実の空白を埋める“彷徨の日々”~

修論で「抗日文化運動」に従事した各知識人についてイメージ化する中で、いわゆる日中戦争期に存在した大学群に当面することになるが、そもそも中国高等教育史と埒外の領域にいた報告者が実感したのは、当時における高等教育機関の全体像を明確化することの必要であった。種々の辞書を始めとする工具類や校史・史料群の収集を通して、少なからざる機関のルーツを含むイメージが明らかとなる一方、断片的記事のみで校史が存在するか否かも確認できぬ機関を前にして報告者のジレンマも必然的に募った。その一つが他ならぬ「國立北平大學」である。

今日においてこそ“中国近代高等教育史上、この「國立北平大學」ほど政治に翻弄され、迷走を続けた大学”は他に例を見ない”と断言できるが、日中戦争下における高等教育機関の動向を調べ始めた当初は、戦時下にあって内陸部へ移転し、他の機関と連立・合併を進める「國立北平大學」が一体如何なるルーツや背景を持つ機関かを示せず、知り得た事実を書き連ねる以外にない苦痛に満たされた。しかし、今にして想えば、それは「國立北平大學」が他の研究者にとっても不明点の多い“避けて通りたい”機関であったということである。事実、同校についてはインターネット上に“頁”〈北平大学百度百科〉は存在するものの、未だに纏まった研究著作の刊行は認められない。

3)本研究(報告)の意図~南京国民政権下「高等教育問題」の普遍性と特異性とを検証する試み~

ともあれ、報告者は、南京国民政府が一連の高等教育政策の展開を通じて整備した高等教育法制及びシステム、國際聯盟教育考察団による現状分析(報告書『改進全國敎育案』)、教育部の各機関に向けた指導工作(『教育部改進専科以上学校訓令彙編』)等を通じ、南京国民政権下の「高等教育問題」について全体像の把握に努めてきた。本会紀要『アジア教育史研究』第22号、第
23号に掲載の「南京国民政府治下における高等教育問題の動態―一九三〇年代前半の教育部による大学評価を踏まえて―」(上・下)は上記『教育部改進専科以上学校訓令彙編』より国立大学(大學・學院:專科學校を除く)への指導内容を抽出・整理したもので、成果の一端だが、作業はなお途上にある。

しかしながら、当該「問題」の本質的把握を試みるためには「問題」の構造化が必要で、例えば全体像(傾向性)だけでなく各機関の個別的問題にも目を向けねばならないが、決して容易でない。

そこで、本研究ではその初歩的試みとして、政治に翻弄され続けたと言ってよい「國立北平大學」、すなわち1928年、政府(李煜瀛派)主導の下に「國立」機関として創設されながら、日中全面戦争(1937~45年)を背景に、1937年秋に事実上解体された「國立北平大學」の“足かけ10年間”を検証することで、南京国民政権下「高等教育問題」の構造的特徴化を試みようとするものである。

※なお、本研究は去る2016年2月27日(土)、本会2015年度第3回定例研究会〔中部大学名古屋キャンパス5階500教室〕で報告を予定しつつ資料の配付のみに終わった「南京国民政府下の高等教育政策に関する一断面―「國立北平大學」興亡小史の検証―」を内容的に発展させたものである旨を断っておく。
  1. 2017/10/09(月) 12:01:50|
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大会自由論題発表要旨(楊奕)

中国近代教育過程における「美育救国」に関する実証的研究 ―1910年代から1920年代までの蔡元培の教育実践を中心に―

中国近代教育史上、「教育救国」という理念を掲げ、さらに美育(美による教育)を中華民国の教育方針に取り入れ、美育をもって近代国家を作ろうという「美育救国」のスローガンを唱えたのが民国初代の教育総長蔡元培であった。蔡元培は美育の提唱者そして実践者として、中国近代美育思想において「主導的な役割」を果たしたと位置付けられている。

美は抽象的な概念であり、この抽象的な美による近代国家像をいかに民衆に受け入れられ、そして社会までに浸透させていくのかが当時の課題であった。本論文では、蔡元培が北京大学総長を務めた1910年代から20年代までの時期において、彼の美育思想がいかなる形で継承され、そして実践の中で展開されていったのかを、彼が密接に携わっていた二つの美育団体―畫法研究会と音楽研究会の活動に焦点をあてて、北京大学で発行した全校向けの新聞誌『北京大学日刊』を中心に、当時の美育運動の実態を明らかにする。

1917年に北京大学総長に就任した蔡元培は、大学のあらゆる情報を教員、学生と職員に公開し、三者の交流をより密接に図るための新聞紙『北京大学日刊』を発行させた。『日刊』は1917年11月から1932年9月まで発行された。北京大学の教師や学生は、国の法令、大学の連絡事項から学習、生活にかかわる情報まで、この新聞紙を通して把握していた。そのため、『日刊』は大学のあらゆる動きを知る重要な情報紙として、教師と学生によく読まれていた。

1918年から1923年まで、美育に関する論説、翻訳、講演が『日刊』に数多く掲載され、中には翻訳の連載も多く見られた。それは美育に対する人々の理解や認識を促しただけではなく、近代美術や音楽研究の新しい方法を紹介することによって、近代美育に対して啓蒙的な役割を果たした。

1917年、蔡元培は畫法研究会を設立した。畫法研究会は著名な芸術家と留学経験を持つ芸術家を教師として迎え、中国美術と西洋美術に関する理論と実践の教育を行った。また、『日刊』には、中国の近代美術の発展に関する芸術家たちの論説や講演も多く掲載され、人々の美術に対する新しい視点を示したのである。

音楽研究会も1919に蔡元培によって発足された。当時の人々の西洋音楽に対する関心を喚起させるため、1922年から27年までの間、研究会は23回のコンサートを開催し、西洋音楽の普及に力を注いだ。

蔡元培の呼びかけで設立された畫法研究会と音楽研究会は、近代美育に対する人々の関心と理解を促したと同時に、両研究会の積極的な活動は、美育の全国への普及をも促進したのである。
  1. 2017/10/09(月) 11:55:12|
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大会自由論題発表要旨(向野康江)

最初の中国人「留学生」 ―日清戦争通訳官向野堅一による姜恒甲少年の渡日・就学支援をめぐって―

中国から日本に来て、日本の学校に入学した最初の人物は誰か。向野堅一は、日清貿易研究所卒業後、日清戦争に巻き込まれ、通訳官として召集され、軍事探偵として密命を受け、九死に一生を得る。極限の調査旅行における一時の安らぎ。それが姜恒甲の祖父姜士采、父姜徳純、そして姜恒甲少年との出会いであった。向野堅一は、この出会いを切っ掛けとして姜恒甲を養子として日本の学校で学ばせることとなる。なお「養子」として渡日するのであるから形式上は留学とはいわないかもしれない。しかし彼の足跡を見ると、実際上の留学と見做して良い事例と考える。つまり一八九五年六月に渡日したこの「十二・三才」の少年こそ、最初の中国人「留学生」ではないだろうか。このやや特殊な出来事には、後に来る留日ブームを考える上で重要な示唆を含むと考えられる。向野堅一『日清戦争従軍日誌』や書翰等に拠りつつ、検討を加えたい。「養子」「留学生」をめぐる解釈など、参加者の皆様の見解も伺いながら、議論を深めることができればと考えている。
  1. 2017/10/09(月) 11:46:13|
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大会自由論題発表要旨(向野正弘)

清代女訓書の動向― 朱浩文撰『女三字経』の考察―

中国女訓書の研究は、故山崎純一先生(桜美林大学教授・アジア教育史学会代三代会長)が確立に向けて努力された領域であり、主著『教育からみた中国女性史資料の研究―『女四書』と『新婦譜』三部書―』(明治書院、1986)は、伝統中国の女性の社会的・家庭的な位置付けを踏まえつつ、広範な調査と綿密な読み込みを通じてなった名著である。当時まだジェンダーの視点はそれほど強調されていなかったと思うが、私は後から、山崎先生のような研究がジェンダーの視点に立つ研究なのだと考えた。

惜しむべきは、先生の急逝によって、研究がうまく次代へと継承されなかった点である。私は、山崎先生に接し、「女三字経」に接することとなる。「三字経」の研究は「女児経」の研究へと繋がり、亀の歩みよりさらに遅い歩みではあるが、少しづつ清代の基礎的女訓書について、研究を進めている。

この領域の研究を始めた頃、日本の代表的女訓書である貝原益軒「女大学宝箱」を石川松太郎先生の『女大学集』(平凡社、東洋文庫)で読んだことがある。その時「なるほど、なるほど」「これはうまくできている」と感じた。しかし中国の女訓書を読んでも一向にそうした感じにならない。「なぜだろうか」と考えた。要するに、貝原益軒「女大学宝箱」の想定する女性は、私の幼少期に生きていた、農村を中心として、一家を切り盛りする女性達の有り様と一続きのものであるのに、中国女訓書の想定する女性達は、かなり異なる、と言うことに尽きると思う。山崎先生は、一夫一妻多妾制原理に基づく女性のあり方をよく理解してたと思う。伝統中国は家族制国家であり、家族と社会、家族と国家とを統合的に把握する視点が必要である。そうは思うのだが…。

今回取り上げる朱浩文撰『女三字経』は三字句の形式を用いながらも伝王応麟撰『三字経』の内容にとらわれることなく執筆された女訓書であり、女子の基礎教育書として興味深い内容を有している。本『女三字経』の内容の分析を通して清代の女子に対する基礎教育の動向の一端を考えてみたい。
  1. 2017/10/09(月) 11:44:09|
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